本論文は「アスペハート5号(2004年1月発行)に掲載されました。アスペの会のご厚意により当ウエッブに転載させて頂きます。
日本におけるTEACCHの再評価
内山登紀夫
アスペハートの会から依頼されたテーマは「日本におけるTEACCHの再評価」である。「臨床家 のお立場から、TEACCHについての評価と、日本での導入の問題点について先生のお考えを存分にお書きいただければ幸いです」ということである。臨床家としての立場からノースカロライナの TEACCHを評価すれば、臨床的にこれ以上成功しているプログラムはないだろうと思う。さて再評価であるからには、初期評価があるのだろうが、こちらのほうはよく分らない。日本での導入の問題点についても述べることが要求されている。この点については、もともと書きたいことが山積みしている。巷間、熱心な一部のTEACCH派からは「敵」とみなされているらしい「アスペの会」から書きたいテーマを依頼されたからには受けないわけにはいかないだろう。とはいえ筆者の立場は TEACCH代表ではないことは、ここで明言しておこう。だいたい筆者はTEACCH部の人間ではない。TEACCH部から代表と認められているわけでもない。TEACCH代表なんて偉そうなことはいうつもりはない。多少はTEACCHを学び、TEACCHのアイデアの有用性に感謝しつつ日常自閉症の臨床に取り組んでいるものの一人として、自分なりに見聞きした範囲での意見を述べることにする。
TEACCHを語るときの困難の一つがTEACCHが何を意味するかが人によって違うことだ。 TEACCHとはいうまでもなく(なんて書き方はやらしいのは承知の上)ノースカロライナ大学医学部精神科TEACCH部を中心にノースカロライナ州全域で行われている自閉症のための援助プログラムであって、単に○○療法的な手法のことではない。○○療法の中には何を入れてもよくて、精神療法でも精神分析でも受容的交流療法でも行動療法でも感覚統合でも抱っこ療法でもメガビタミンでも薬物療法でもイルカ療法でも構わない。ここで伝えたいことはTEACCHプログラムと言ったときには、○○療法以上の意味を含んでいることであって、○○療法の価値判断を行っているわけではないことも注意しておきたい。
TEACCH部が行っている援助は多岐にわたり、州内に9箇所あるTEACCHセンターで行われている診断やアセスメントのサービス、TEACCHセンターのスタッフが学校やグループホームに出向いて行うコンサルテーション、数々のセミナー、研究、スタッフ養成などがTEACCHプログラムである。
そのように考えていけばTEACCHを日本で評価するということはノースカロライナでのサービスプログラムのあり方を評価するということも含まれる。筆者がこれをどう評価するかといえば、一言でいって脱帽である。ノースカロライナが自閉症の天国だなどというつもりは毛頭ないし、ノースカロライナの自閉症の人はパニックをおこさないなどという気もない。ノースカロライナの自閉症の人、その家族も多くの困難を抱えている。しかし、やはりノースカロライナの自閉症サービスのあり方はもっとも成功しているといっていいと思う。少なくとも筆者の立場はノースカロライナの自閉症サービスのあり方は日本よりも平均的なイギリスのサービスよりも総体として優れていることを素直に認めたいと思う。そういう意味ではまぎれもなくTEACCH派であって、ショプラー万歳といってTシャツにサインをしてもらったくらいである。
最近、文部科学省の人や現場の教師がよく言う「日本の障害児教育も優れている。重度の子どもに対してはどこにも負けない、これからは軽度発達障害だ」などという発言には、明確にNoと言う立場であって、「軽度発達障害」は無論のこと「重度の自閉症」についても日本の自閉症教育はノースカロライナにもイギリスにも大きく遅れをとっていると自分の臨床経験からは断言したい。まあノースカロライナやイギリスでみてきた自閉症療育の場面は、かの地の平均的な水準よりは高いところを中心に見てきたのだろうとは思うが、日本の平均的あるいは平均以上とされている教育・福祉場面に関与した経験からは、日本の教育・療育機関はまだまだである。福祉機関についてはお金のかけ方が英米より全く低額という現場の良心的なスタッフが地団太踏んで悔しがるのが当然と思えるハンディはあるものの、養護学校などの人員配置や予算は日本が少ないわけではない。そのわりには効果があがっていないと教育関係者が深く憂慮しているのかと陰ながら同情していたのだが、最近の文部科学省の関係者が自画自賛するのをみていて、同情するんじゃなかったと後悔した。大体、こと自閉症に関して言えば重度だって高機能だって援助の原則は同じなのだ。
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筆者は、日本の「自閉症業界」ではTEACCH派と目されているらしい。まあアンチTEACCHでないことは確かである。実際TEACCHからは大きな影響を受けた。筆者にとって師匠を3人あげろと言われれば、元梅ヶ丘病院院長の中根晃先生、シャーロットTEACCHセンターのジャック・ウオール、エリオットハウスのローナ・ウイングである。ショプラーからはどちらかといえば文献を通じて影響を受けた、メジボフは文献というよりは色々な話を通じて影響を受けた。でも一緒に臨床を行ったのはジャックなので、臨床家としての師匠はジャックである。ジャックの臨床が与えたインパクトは激烈だった。ジャックが「TEACCHは、TEACCHは」という中身がいつも印象的だった。つまり筆者にとってのTEACCHはエリック・ショプラーでもゲーリー・メジボフでもなくジャック・ウオールなのでかなり偏っているのかもしれない。まあ偏っているといえば、大抵のまともな臨床家は偏っているので、そんなことはどうでもいい。教科書的な最大公約数的な専門家は師匠としてはつまらない。つまり筆者は臨床家としてのジャックの影響でTEACCHシンパになった。とはいえTEACCHに留学したとき既に齢30台後半であって、臨床経験も10年以上になっていた。臨床心理士目指している大学院生じゃあるまいし、それなりに十分に神経線維もねじれており、精神の外皮も相当に角化しており、すんなりとTEACCH教徒になるほどウブじゃなかった。既に当時、本や論文に書いてあることと実際とは違うということを十分に認識していた。周囲には沢山論文やモノグラフを書いている医者や心理、教師、教育学者の専門家は大勢おり、さらに彼らの臨床の実際も目の当たりにし、理論は色々あっても、実際に子どもにやっていることは大同小異だし、自閉症に対して眼を見張るような効果のある手法もないのだなあと思っていた。正直いってTEACCHに留学する前は、そんなに期待が大きかったわけでもなかったのだ。今だから正直にいうと当時勤務していた病院でかなり煮詰まっており、リセットをかけようとしていた。別にTEACCHじゃなくてもよくて、実際に他にもいくつかの留学先を検討していた。イスラム教徒がメッカを目指したり、カトリック教徒がローマを目指したり、浄土真宗の信徒が本願寺を目指すような気持ちで、TEACCH の聖地を目指して旅立ったわけではなかったのだ。ところが実際にTEACCHに行ってみて、あっさりとTEACCHの凄さに脱帽してしまった。ジャックのいうことはいちいち納得いったし、ジャック自身がテストをしたり子どもの指導をしたりしていたので、そのようすをみると眼から鱗の連続で、そういう意味ではジャックのTEACCHに喜んで弟子入りしたわけだ。
シャーロットで目の当たりにしたのは単純に言えば「構造化の力」である。自閉症が認知障害であるということは、留学前から厭と言うほど聞かされていたが、認知障害の意味が実感できたのはシャーロットだった。当時の日本では自閉症は認知障害であるということは十分に認識されていたが、では援助手段はなにかというと行動療法しかなかった。認知障害であると認識することの意味は、せいぜい精神力動的な精神療法や遊戯療法の適応ではないということくらいの意味しか臨床的には持ってなかった。当時、少なくとも筆者の周囲では「自閉症は認知障害だから行動療法しかない」みたいに言われていた。TEACCHでは全然違っていた。「認知障害だから自閉症の認知特性の弱点を補うような認知的配慮をする」という、まあ今考えてみれば当然のことの意味を実感をもって感じられた。TEACCHで繁用する視覚的指示やスケジュール、容器(コンテイナー)、フィニッシュボックスなどの構造の力を実感したのが凄いことだった。さらにそのように強力な構造化の力を自閉症の子どもを大人の意のままに使うためでなく。自閉症の子どもが安定して過ごし、自閉症の子どもが自分の意思を表現できるために使うことに細心の注意を払っていることだった。ショプラーにTEACCHの基本は何かときいたら「構造化とヒューマニズムの二つ」だと答えてくれたのが印象に残った。しかし筆者がノースカロライナで味わったような「構造化の力の強力さと怖さ」を十分に日本の療育者に伝えるのは難しいことだった。このあたりの伝え方は、やはりマンツーマン的な徒弟制度的な、外科医が研修医に手術を教えるような手段でないと難しいと思うのだが、そのような機会が不十分なままに、広がりすぎてしまったようにも思えるのだ。
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さて、ここで話題にするべきは日本のTEACCHであろう。ノースカロライナのTEACCHがどんなに優れていても、日本人にとっては絵に描いた餅であって、われわれ日本人にとっては「日本のTEACCH」が問題である。「日本のTEACCH」と言ったときには問題にするのは必然的にTEACCHプログラムではなく、TEACCHメソッドということになる。TEACCHプログラムは教育システムや福祉のシステムも含めたノースカロライナ独自の援助システムのことなので日本で「TEACCHプログラムをやっています」と言うのは可笑しなことだ。TEACCHメソッド、つまりTEACCHプログラムの中の療育技法のようなものを導入することはできる。またTEACCHのフィロソフィーを基盤にすることができる。それが筆者の考えるTEACCHから学ぶということだ。TEACCHのフィロソフィーをここで詳述する余裕はないので項目だけあげておこう。
TEACCHの基本理念
- 自閉症の特性を理論よりも実際の子供の観察から理解する
- 子どもに新たなスキルと教えることと、子どもの弱点を補うように環境を変えることで子どもの適応能力を向上させる
- 個別の教育プログラムを作成するために正確に評価する
- 構造化された教育を行う
- 認知理論と行動理論を重視する
- 現在のスキルを強調するとともに弱点を認める
- 生涯にわたるコミュニティに基盤をおいた援助
日本でTEACCHを批判する人は多いのだが、この原則からして反対な人も沢山いる。「構造化された指導」とか「生涯にわたる援助」とか「弱点を認める」あたりで首をかしげるひとが多い。要するに、「自閉症だって努力でなんとか達成できる」とか「世の中には予測できないことも非構造化された場面も多いのだから」というわけだ。こういう人は養護学校の先生の先生の多いような気がするけれど、卒業生の平均的な生活をちゃんとみたことがあるのだろうかと思ってしまう。ここに述べたようなTEACCHのフィロソフィーに反対される人と話しをするのは容易ではないように思う。
本稿で期待されているのは、こういったアンチTEACCHの人のことではなく、「日本における TEACCHの導入の問題点」なのだろうから、このあたりはこれ以上追求しないで、ここで「日本の TEACCH派」の話にもっていこう。大きな問題点はこのTEACCHの原則を全く無視して「うちは TEACCHをやっています」とか「私はTEACCHで指導しています」とかいう人が日本では多いことだ。そこでTEACCHをやっているの意味は絵カードを使ったり、ついたてを立てたり、スケジュールを提示するということだったりする。それが自閉症の子どもに効果をあげていてもいなくてもカードを使えばTEACCHだということになると思っている人もいる。気になるのは「TEACCHに嵌まっている人がいる」ことだ。実際に目の前の子どもに有効でなくても「これはTEACCHだから」有効だと思おうとする。実際に子どもの課題があっていなくても、なんとかスケジュールや構造化の枠組みを使えば、子どもにやらせることができると思っている人もいる。ある施設で、肥満の人のためにジョギング15周のプランをたてた。ジョギングを嫌うひとが続出したので「そうだTEACCH だ!」ということになり、施設の庭を一周するたびにカード一枚を手渡し、スケジュールボード(のようなもの)に一蹴ごとに貼り付けるようにした。筆者はカードもらおうと、何をもらおうと、なんのためにかわからないのにジョギングなんかしたくない。施設側は肥満の人の健康管理を思ってプログラムを組んだのだろうが、利用者が嫌がるものを構造化の力で押し付けようというアンチヒューマニズムには気がついていないようだった。日本でTEACCHを誤用する人は、こちらのさせたいことで相手が嫌がることを、無理強いしてさせるために構造化の力を利用していることが多いように思う。こういうやり方を見てしまった人は「TEACCHは機械的だ、構造化の力を使うのは非人間的だ」と思っても無理はない。もちろん、そのようなやりかたはいかなる意味でもTEACCHではない
日本におけるTEACCHの導入の問題点は、形だけが導入されやすいことだと思う。TEACCHは一見、非常にわかりやすい。TEACCHのフィロソフィーにしても、TEACCHの構造化の手法にしても難解なところは何もないようにみえる。たとえば動作法のフィロソフィーと比べてみれば、あまりに単純明快すぎてTEACCHを信奉する輩は単純人間だと思われそうで恥ずかしいという人がいたって、それほど不思議じゃないような気もする。「ついたて」にしても「スケジュール」にしても見れば一目瞭然のように思える。勉強の場所についたてを設置してTEACCHだといっても、それは TEACCHかもしれないし、TEACCH じゃないかもしれない。要するに「ついたて」を設定することが、その子どもにとって必要で効果があり、そのほうが落ち着けて、ついたての中でやる課題なり勉強なり仕事なり、なんといってもいいが、子どもに設定した素材が子どもの能力や興味や必要性にあっていて、その素材をやることが子どもにとって意味があって、機能的に有用で、そのついたてを立てるほうが子どもが自発的なコミュニケーションを出しやすくて・・・。要するの子どもの自己実現や自己選択を支援するという目標にかなっているかどうかが大切な点だ。このあたりの基本の基本がわかっていないと手段と目的の反転がおこる。
TEACCHの基本理念の一つの「個別化」も無視されていたり誤解されていたりする。クラス全体や作業場全体を一つのスケジュール(視覚化されていても)提示したり、全員が同じ作業や課題をやっていたりするのもTEACCHではない。こういうふうに全体だけで運営している偽TEACCH もあるけど「TEACCHは個別化だからTEACCHの考えでは学校で運動会はしない」とか「朝起きるのが苦手な自閉症の子どもがいるからといって昼から運動会を始めるわけには日本ではいかない」とか見当はずれの大真面目な議論をする先生もいる。TEACCH は運動会を認めないなんて言い出す人もいる始末だ。日本のような運動会はなるほどノースカロライナにはないかもしれないけど,色んな行事はノースカロライナにもある.要は行事が是か非ではなくて自閉症特性に配慮しているかどうかが大切な視点だ。ノースカロライナでも朝起きるのが苦手な自閉症の子どもがいても行事は朝から始まる。当たり前のことだ。ただ朝起きれないのが自閉症の子どもなら、自閉症特性からなぜ朝起きれないのかを考えて、対策をたてるだろう。ノースカロライナでもと何度か書いたか、ノースカロライナでも日本でもイギリスでもジンバブエでもどこでも自閉症の子どもはいる。そして自閉症の子どもの行動は世界中共通している。その子どもが自閉症であるならば、どんな文化圏に住んでいてもTEACCHのフィロソフィーは有効だろう。要はTEACCHのフィロソフィーから出発して自閉症の子ども(と大人)を援助しようとすることだ。
今、子どもと大人と書いたけど、子どもでも大人でも、その人が自閉症であるならばTEACCHのフィロソフィーを生かすことができ。子どもの頃からTEACCHの方針で対応したほうが子どもの苦労は少ないだろうとは思うけど、大人になってからでは駄目だということでもない。
本来のTEACCHの考え方は、非常に非常に柔軟だ。自閉症の人それぞれに、同じ人でも状況によって臨機応変に対応していく。その臨機応変な対応がTEACCHの良いところだと思う。結局 TEACCHが提供してくれるものは考え方の筋道なのだと思う。絵カードがうまく機能しなければ、一旦あきらめて、別の方法を考えれば良い。TEACCHのフィロソフィーを念頭におい、現場のスタッフが自分の頭で考えて試行錯誤しながら援助していくことが大切だ。自分の頭で考えないで、ビデオなりテキストなりに提示された「結果としての構造化」を模倣することを「TEACCH もどき」と呼ぼう。「TEACCH もどき」の技法を適用しようとすることは危険であって、「日本のTEACCH」に対する批判の一部(あくまで一部だけど)は、このようなTEACCHもどきへの正当な批判だと思う。TEACCHは宗教ではない。TEACCHを実践しようとすることは自分の頭で考えることであって TEACCHを信じることではない。TEACCHのフィロソフィーだって、十分な根拠さえあれば変更しても構わないのだろうと思う。信じる者は救われない。TEACCH教の信者は自閉症の援助者にはなれない。TEACCHの考えや技法は自分の頭と身体で納得するまで咀嚼してこそTEACCHを生かせるのだろう。TEACCHは信じる対象ではなく理解の対象である。筆者はTEACCH以上のフィロソフィーなり、療育プログラムが出現したら、あっさりとそのプログラムに乗り換えるだろう。臨床家としてもっともクライアントの役にたつ方法を選択することは当然のことだ。もっともそういう TEACCH以上の方法があればTEACCHプログラム自身がそのプログラムを取り入れることになるのだろうと思う。
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